岩手情報発信基地 1TASU1NET 岩手の地域の情報・文化・歴史などを配信しております


マタギ

2月 11th, 2010 by admin

ミナシログマ

ツキノワグマでも、全身真っ白な毛の北極グマのような珍しい熊が
岩手の遠野市地域の山岳地帯に生息しているという話が秋田マタギの
間で伝承されていたといわれている。

秋田マタギの間では、月の輪の全くない黒熊を”ミナグロ”と呼び
山の神の使いとして、この熊をとったなら神に供える。
マタギの掟としてタテをおさめる(マタギをやめなければならない)
こととなる。

ミナグロに対して全身真っ白の白熊をミナシロと呼び
この熊も秋田マタギの間では捕まってはいけない熊なのです。

そのミナシログマが岩手県遠野市に頻繁に出没していていたようだ。
上郷地域の細越という部落に昭和35年頃全身真っ白な小熊がとられている。

もちろん遠野地域でもミナグロ、ミナシロは神の化身のクマと
いわれているのは秋田マタギと同じ。

白子クマの死体の上に射殺した銃を置いて、簡単に祈りを捧げるという儀式を
行い、さらに念入りに神官のお払いまで行っている。

さらに、昭和45年5月28日ミナシロのメス小熊が
遠野市青笹町前川原地内の国道283号線道路のど真ん中に白昼堂々
出没したため捕獲されている。

遠野警察署のパトカーが出動して交通整理にあたる騒ぎであったという。
遠野市農協青笹支所長の畑山さんが里マタギということもあって
白小熊を射殺している。

畑山さんもミナシロはミナグロ以上の神の使いであるという伝承を信じて
死んだ白クマの上に銃を置いて祈っている。
そしてやはりマタギの儀式では心配で念入りに神官を呼んでお払いまで行っている。

このとき捕獲されたミナシロのクマは遠野市民センターに展示された。

神の使いであるといわれたミナシロであったとは思わず何の気なしに見ただけであるので
なんで遠野市に北極グマの剥製が展示されているんだろうと疑問に思って見た程度であった。

現在は遠野市民センターも昔と少し変わりこのミナシロの剥製が
見あたらなかったような気がした。
機会を見つけて遠野に訪れて確認してみることとする。

そして遠野には昭和53年春に巨大なミナシロのクマが出没したのを
山菜取りに出かけた方たちに目撃されている、

突然変異のようなクマではあるようだが一度ミナシロのクマになると
子クマもミナシロになるようだ。

神々がすむところ遠野ならではの伝説だ。

マタギ

2月 11th, 2010 by admin

マタギとは熊狩りのプロ集団のことをいいます。

■マタギの由来

 四国のほうで狩りという意味をあらわす「マトギ」が語源
 山の峰を跨いで歩くからマタギ
 木の叉から生まれたからマタギ
 アイヌの間でマタギという言葉があるのでそれが語源
 「山立」が訛ってマタギとなった
 インドのマータンガ(男)やマータンギ(女)が語源

マタギといえば秋田県の秋田マタギが有名。
秋田県では一般に平野地方では、普通の銃で猟をする人を「鉄砲打ち」
奥山で熊狩りをする人たちのみを「マタギ」と呼ぶようです。

マタギの歩幅は広い。
特に熊狩りの時は遠くへ飛ぶといいます。
そして遠くへ飛ぶマタギが優秀とされ、
熊などへ打ちかかるときは信じられないほどの歩幅で飛ぶようです。
マタギは跨ぐといいうことに多く関連しているようです。

稼ぐがカセギになったように、跨ぐがマタギ、山を跨いで歩くような生活をするので
マタギとなった説が一般的ではというのが定説のような気がします。

■マタギの秘巻

マタギ衆を精神的に支えている「巻物」がある。

日光派(山本根本巻) 天台宗
高野派(山立之由来之事) 真言宗

岩手県でマタギが活躍したのは沢内地方だと思います。
そんな沢内地方でも秋田マタギの影響は強く、
阿仁から日光派の山本根本巻の巻物の写しが伝わっています。

巻物はマタギの本尊となり峰から峰へ渡るときの藩界越境の許可証にもなっています。

■熊狩り

マタギの狩の中心は熊狩りです。
アオシシマタギ、サルマタギと呼ばれるカモシカやサル専門のマタギもいたようですが
マタギといえば一般的に熊狩りを言うようです。

熊は山の上のほうへ逃げる習性があることから谷筋や山の斜面で熊を発見すると
あらかじめ配置されている勢子と呼ばれる人たちが
「ホウホウ」と叫びながら頂上に向かって追いあげ
高い場所で待ち構えていたブッパと呼ばれる人たちが
シロビレ(鉄砲)で撃く。

それら一連の戦略や配置、指示をだすのが「シカリ」と呼ばれるマタギのリーダーの存在です。

マタギ一組の人数は7人ともいわれていますが10人になることもあるようです。

全員の配置はシカリが行うことは共通のようですが
指示は「メアテ」と呼ばれる人が出す場合もあるようです。

部署につき終わったならメアテが口笛または手を振って合図。
すると「ホーオッ」と叫びながら勢子がゆっくりと登る。
(勢子は前後左右に注意し、先を争ってはならない)

メアテは全体に気を配りながら、
必要な命令を次から次へと大声で出す。
(上下、左右、前後と各人との距離など正確に示していく)

「行った、行った、どこ見てる。」
などと位置、距離などが不明な指揮を絶対にしてはいけないとされ
常に熊の動作、速度まではっきりと伝える。

人数構成によってメアテの役割もシカリがすべて行うということになる。

風の又三郎の舞台

1月 24th, 2010 by admin

風の又三郎の舞台はどこなのか

風の又三郎のベースは「種山ヶ原」」と言われているのはご承知のことです。
そんな理由からか舞台も種山ヶ原(種山)のある江刺になるのではと考えていました。
実際風の又三郎の銅像のようなオブジェが種山にあるのでそんなイメージになりやすくなるのは
僕だけではないのでしょうか。

『五時間目が終ると、一郎と嘉助が佐太郎と耕助と悦治と三郎と六人で、学校から上流の方へ登つて行きました。少し行くと、一軒のわらやねの家があつて、その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木は、もう下の方の葉をつんであるので、その青い茎が、林のやうにきれいにならんで、いかにも面白さうでした。
すると三郎はいきなり、
「なんだい、この葉は。」といひながら、葉を一枚むしつて一郎に見せました。』

岩手でこの葉たばこが栽培されていたのは岩手県大迫町だけだということが分かりました。
(岩手県大迫町在住高橋さんよりお聞きする)

この葉たばこは“南部葉”と呼ばれたそうでこの葉たばこのおかげで昔大迫町はこの葉たばこのおかげで潤っていたそうでお金持ちが多かったというお話です。

『風の又三郎』のたばこ畑の舞台は、大迫にあったことは定説になりつつあるようです。

さらに風の又三郎の舞台は大迫ではないかと思わせることにモリブデンがあげられます。

主人公又三郎は鉱山技師である父とともに小さな学校に転校してきて子どもたちと交友する物語です。しかしモリブデンは手をつけないこととなり又三郎はまた嵐の日に転校して帰ってしまうこととなります。

モリブデン鉱山は岩手県では珍しいもので産出が知られているところは、久慈市の大川目鉱山と大迫の猫山のみであることが岩手県鉱山史にてわかります。

猫山鉱山周辺の昔からの部落民は水鉛塊を拾ったはいいが何なのかよくわからなかったようです。
しかし、神棚に祭って崇拝していたようです。

時代は明治になり部落の重だった人達が出資し、鉱夫に来ていただくことになったようです。しかし周辺には鉱夫がいなく伊達の半田鉱山(福島県)から来ていただき掘ってみたようです。

当時は水鉛鉱であることの鑑定もできず、需要もなかったようでそのまま放置されてしまったようです。

モリブデンは見た目は銀のように見えることから、当時の猫山周辺の部落の人たちは銀ではないのかということで明治の時代に石見銀山や佐渡金山と並ぶ銀山であった半田銀山から技術者を呼んでみてもらったことになったのでしょう。しかし猫山には銀が産出しない。モリブデンと銀では製錬方法が異なるし、当時モリブデンは需要がなかったため技術者は引き揚げざるを得なかったということでしょう。

この史実は「風の又三郎」の主人公高田三郎くんのお父さんが、程なく帰ったこととよく似ています。

賢治さんが大正7年「稗貫郡地質及土性調査」を担当した際、古老などから明治初期の猫山でのモリブデン鉱山開発の経緯を聞いていたのかもしれません。

「風の又三郎」は「風野又三郎」「種山ヶ原」「さいかち淵」のよせ集めといわれていますが、これらの童話にはない葉たばことモリブデンを登場させています。
「風の又三郎」の舞台は岩手県大迫外川目村であることが有力です。

銀河鉄道の夜の考察

1月 11th, 2010 by admin

宮沢賢治の作品の中のひとつに「銀河鉄道の夜」という名作中の名作があります。
この作品だけでも宮沢賢治という名は世界に広がっていっったのではと思わせるほど
名作中の名作だと僕は思っています。

賢治さんも「銀河鉄道の夜」は生涯編集し続けていて遂には未完成のままになりました
しかし完成しているといって良いほどすばらしいです。

ただ賢治さんの作品はどの作品でも不可思議な表現や難解な箇所が時々現れるのが特徴です。

… なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 …

… これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。 …

と賢治さん自身がおっしゃってますが
すべての表現がそうなのではないでしょうがこのことは事実だと僕は確信しています。

ジョパンニが何時頃銀河鉄道に乗ったのかということについてもたくさんの考察がなされています。
僕なりにも解明してみようと思います。

☆銀河鉄道に乗った日のジョパンニの行動

学校の午後の授業を終わったジョパンニは家には帰らず活版所にアルバイトに行っています。
(活版所へ行くくだりに「家へは帰らず」という文章からジョパンニの家は活版所に行く途中のどこかの道を曲がることになる)

六時がうってしばらくたったころバイトが終了しパン屋に寄って家に帰ります。
そして、牛乳が届いていない事を知り、ケンタウルス祭を見物しながら、
それを取りに出かけてくるとお母さんに言って家を出ます。
そして、町外れの丘で銀河鉄道に乗ることとなります。

まずはじめに考えることは六時がうってしばらくたったころとは何時頃なのかいうことです。
しばらくとは何分位なのか調べてみたなら10分~15分位だそうです。

とすればジョパンニのバイト上がりの時間は6時10分~15分頃ということになります。
そして10分ほどで家路に着く。(6時20分頃)

お母さんと会話を交わし家を出たのが6時30分。
10分ほどで牛乳屋に着く(6時40分)。
牛乳屋にもう一度来いと言われ牛乳屋を出たのが6時45分。
6時55分丘に着く。

そしてジョパンニは銀河ステーションの眩い光に包まれる。
(7時00分)

単純な時間計算ですが午後7時00分丁度にジョパンニは銀河鉄道に
乗車したと考えるのが適当ではと思います。

しかし、実は単純ではないことがよく考えてみるとわかります。
それは、ジョパンニ達を乗せた銀河鉄道列車が白鳥駅に着いたのは、午後11時です。

「もうじき白鳥の停車場だねえ」
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ」

すると各駅の停車時間を10分ほどとすると銀河ステーション出発時間は10時50分となります。
ここに3時間50分の時差があることが分かります。

仮に10時50分の出発時間を正しいとするならば6時ちょっと過ぎまで活版所で働いていたジョパンニが銀河鉄道に乗車するまで4時間程費やしていたとは普通に考えておかしいです。

それでは賢治さんが時間の表現を間違えて書いたのでしょうか?
聡明な賢治さんがそんなことをするはずはありません。

「銀河ステーションの時計はよほど進んでいるね」

とカンパネルラが言っています。

となれば、生者の時間と死者の時間の時差は3時間50分ほどということになります。

「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、・・・」

その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、風もなくなり汽車もうごかず・・・

時間の表現が違って表現されていることから時間の変更線のようなものがあることがわかります。

ジョパンニの銀河鉄道の乗車時間は午後7時00分。
死者の時間では10時50分。
どちらも正しい時刻となります。

銀河鉄道の夜の考察

台川

1月 7th, 2010 by admin

釜縁の滝

そしてさうだ、向ふの崖(がけ)の黒いのはあれだ、明らかにあの黒曜石のdyke だ。
こゝからこんなにはっきり見えるとは思はなかったぞ。
 よしうまい。
〔向ふの崖をごらんなさい。黒くて少し浮き出した柱のやうな岩があるでせう。
あれは水成岩の割れ目に押し込んで来た火山岩です。黒曜石です。〕
ダイクと云はうかな。いゝや岩脈がいゝ。〔あゝいふのを岩脈といひます。〕
わかったかな。
〔わかりましたか。向ふの崖に黒い岩が縦に突き出てゐるでせう。
 あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。〕

賢治さんは「向ふの崖の黒いあれだ、明らかにあの黒曜石の dyke だ。」と断定しています。
そして「あれは水成岩の割れ目に押し込んで来た火山岩です。黒曜石です。」
と生徒に説明しています。

しかし実際現場では黒曜石は見つけることはできません。

「こゝからこんなにはっきり見えるとは思はなかったぞ。」
の”ここ”もどこなのかも特定できません。

台川には黒曜石はなく、賢治さんの創作の中だけのお話なのか
それともどこかに黒曜石があるのか機会をつくってじっくりと調査したい。

ラクシャン兄弟

1月 5th, 2010 by admin

ラクシャン第一子は、黒かみをふりみだし、大きな目をぎろぎろ空に向け、口をぱくぱくやって、何か怒鳴ってゐる様子でしたが、その声は聞えませんでした。

ラクシャン第二子は、長い長いあごを、両手の上にのせてねむり、

ラクシャン第三子はやさしい目をせわしくまたゝき、

ラクシャン第四子は、夢のやうな黒い瞳をあげて、じっと東のなだらかな高原を見つめてゐました。

賢治さんが山並みを眺めて「四人兄弟」を実感した場所を特定することは今回はかないませんでした。
あとで調べて分かったのですが、どうやら北ノ又沢方面の道荒川林道の途中であることがわかりました。また機会があればその場所から「ラクシャン兄弟」を展望してみようと思っています。

その場所からは青の木、高狸、無名峯、塚瀬森と絵に描いたように美しく並んでいるとのことです。

そのことからも、童話の「ラクシャン四人兄弟の岩頸」は、第一子青ノ木森、第二子高狸山、第三子無名峯、第四子塚瀬森であることが分かります。

そして賢治さんが野宿に入る前に、北ノ又沢沿いの荒川林道を歩いた頃は夕方か早朝であろうと思います。

北の又
霧積みて
雫も滋くなりしかば
青くらがりを立てるやまどり。

塚瀬林道

1月 4th, 2010 by admin

塚瀬林道

北ノ股沢と西ノ股沢合流地点を左に行ってみることとしました。
(西ノ股沢沿いの道)

後で調べてわかったのですが賢治さんは北ノ股沢沿いの道(荒川林道)を途中まで行って
「ラクシャン四人兄弟」の山々を展望している。

西ノ股沢の道に行く前に北ノ沢沿いの道である荒川林道を僕も途中まで行ってみたのですが、雫石方面という案内を見て引き返し塚瀬林道の道(花巻に抜ける)を行くこととしました。

賢治さんはどうやら荒川林道で「ラクシャン四人兄弟」を展望した後引き返して割沢から塚瀬森の旧道そして塚瀬林道、鍋割川から台川を経て円森山へ、その円森山付近にて馬を引く炭焼青年に会っている。

雲の暗い日、円森山といふ深い峯から馬を二頭ひき自分も炭を荷ひ一生懸命に私に追ひついた青年がありました。
(書簡63)より

第四紀のはじめころ、第三紀の地層男助層と幕館層を突き破って、現在の北ノ股沢と西ノ又沢の合流地点付近に火口をもつ葛丸元山ができた。その後、この葛丸元山が陥没して葛丸カルデラを作っている。その時の外輪山は噴火と崩落を繰り返して現在の青の木、高狸、無名峯、塚瀬、権現、諸倉などの葛丸諸山を形成。
(早川典久「岩石鉱物鉱床学会誌」1952)より

賢治さんは早川氏よりずっとまえにこのことを見抜いていました。

賢治の野宿跡地

12月 28th, 2009 by admin

宮沢賢治野宿跡地

「楢ノ木大学士」は河原の緑色凝灰岩の上で野宿をしたことになっている。
しかし、賢治がこの調査を行った時期は5月2日の葛丸川には雪が残っていたと思う。

そんな時期に賢治さんが石の上に野宿したとは考えられない。
炭焼き小屋に泊まったでしょうということが定説となっていて、
賢治さんが野宿したと思われる炭焼き小屋の跡地の案内もあります。

宮沢賢治野宿跡地

あたりはしーんとしていて、葛丸の川の流れの音しか聞こえない。
宮沢賢治野宿跡地

案内看板から5~6分ほど入ってくると賢治さん野宿跡地に着く。
炭焼き小屋といっても岩手の春先の、しかも山の中ですから寒くてあまり眠れなかったのではと思います。

しかしそんな過酷な状況で体的にきつくなればなるほど感覚が研ぎ澄まされ良い詩や童話が書けると賢治さんは言っていたようですので、賢治さん自身は気にならなかったことでしょう。
宮沢賢治野宿跡地

当時は炭焼きが盛んであったようで炭焼き小屋跡地がいくつかあります。
宮沢賢治野宿跡地

楢ノ木大学士の野宿

12月 19th, 2009 by admin

この童話は、ホラ吹きの「楢ノ木大学士」が「赤鼻の支配人」に依頼されて蛋白石の採集に出かけるというものになっているのはご承知のとおりだと思います。

賢治さんは何編か地学童話を残しています。
最も重要な地位を占めている鉱石が蛋白石だと思います。

蛋白石は変質する性質のようで熱にも衝撃にも弱くそして乾燥にも弱いをいう特徴を持っています。綺麗な蛋白石であっても、ただの普通の白い蛋白石になってしまうことは鉱物が好きな方であれば十分理解していると思います。

しかしその性質を理解している鉱物採集者でさえも、綺麗な蛋白石を採集してきてストーブの前に置いていたなら白濁してしまったというお話を聞いたことがあります。

ならば綺麗な蛋白石のまま維持しているのはどういう理由なのかといえば、宝石屋などではじっくりと時間をかけ水分を飛ばしていて白濁しないように乾燥させているようです。

その蛋白石の性質を上手に題材にしたのが童話「貝の火」です。

「楢ノ木大学士の野宿」の舞台として、葛丸川渓流が第一夜に登場してはいます。確かに葛丸川は実際に実存していますが蛋白石が採集できるかといえばなかなか採集できないと感じました。

僕も先日見つけたのが蛋白石だと思っていたところそれは緑色安山岩に含まれる沸石ではないかと石に関しては素人ですが思ってしまいました。
(沸石かどうかは分かりませんが蛋白石ではないのは間違いないでしょう)

葛丸川で沸石や玉髄やメノウそして蛋白石などが採集できたのは今は昔のお話なのでしょう。

楢ノ木大学士の野宿

12月 14th, 2009 by admin

「楢ノ木大学士」が葛丸川を遡ったのは5月20日であるが、
賢治さんが調査で葛丸川にはいったのは大正7年5月1日。

この日雨に降られた賢治さんは、大瀬川小学校校長牛崎繰城氏の家に泊まっている。
賢治22歳、盛岡高等農林学校研究生の時である。

翌5月2日付、父政次郎に宛てた葉書によると

昨日は雨天に御座候処予定の調査を終へ昨晩は当小学校校長の宅に泊まり衣類も全く乾かし貰ひ候
本日は晴れさうにも見え候へども割沢川沿いに調査致し明日晴天ならば割沢より山地を経て当初に出て帰花仕るべく候

5月2日は割沢まで行きそこに泊まり、翌3日山地を通り石鳥谷に出て花巻に帰ったこととなる。